by Taichi Araki
聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。
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June 30, 2024
<p>「恐れることはない。 ただ信じなさい」 マルコ5:36</p> <p>2024年6月30日 聖霊降臨後第6主日(特8)聖餐式</p> <p><br></p> <p>もし自分の娘が、12歳の若さで命尽きようとしているなら…。どれだけ悲しいでしょうか。どれだけ必死になるでしょうか。 </p> <p> ヤイロは会堂長として街の有力者であり、権力も財力もありました。そんなヤイロが田舎から来た癒し人の前に、なんの威厳もなくひれ伏して願うのです。「どうか娘に手を置いて、癒してください!」と。</p> <p> その必死さに応えてイエスさまは家に向かいます。しかしその途上、ほかの人を癒している間に知らせが来ます。「娘さんは死にました。」ヤイロは悔しがり、恨み、絶望し、悲しみの淵に落ちました。もう何の望みもない。死んでしまったのだから。</p> <p> しかしイエスさまはここでヤイロに言います。「恐れることはない。ただ、信じなさい。」娘が死んでしまった今、何を信じろと言うのでしょうか。良い葬式をすると言うのか、それとも、もう一人の娘を授けるというのか。信じる内容がわかりません。理解を超えています。</p> <p> ただ彼は、悲しみはそのままにして、自分の限界を超えて、イエスさまに頼りました。信仰とは、限界を越えることです。感情と理解の限界をこえて、主イエスさまに頼ることです。</p> <p> そうすると主は「娘はただ眠っているだけだ」と言い「タリタクム」と娘の手をとって生き返らせたのです。限界を超えて現れたのは復活の命でした。</p> <p> 主は悲しむヤイロに「悲しむな」とは言いませんでした。「恐れることはない、ただ信じなさい」と言いました。悲しみはそのままにして、理解できない未来もそのままにして、それでも限界を超えてご自分を信じなさい。限界を超えて、復活の命へと導くから、と。</p> <p><br></p> <p> Aさんの晩年は愛する息子さんに先立たれ、死別の悲しみにありました。深い信仰者でしたが、限界にありました。どれだけ辛かったか。ご主人によりますと、最期も悲しみのうちに亡くなられた、と言います。他の人も「かわいそうだ」と言います。でも私は思います。主はその限界でAさんに呼びかけられたのではないか。「恐れることはない、ただ信じなさい。」そしてAさんは悲しんだまま、それでも限界を超えて主に頼って生活しておられた。そうして限界を超えて信じて死んでいかれた。そして死を越える復活の命へと導かれた。愛する息子さんたちとの再会へと導かれた。私はそう信じています。</p> <p> 悲しみはそのままにして、受け入れて、それでも限界を超えて主を信じる。そうすれば、想像をはるかに超えて、復活の命に導かれていく。</p> <p><br></p> <p> 思えばイエスさまこそ、見捨てられて拷問されて殺されるという悲しみの限界にあって、父に頼りました。この杯を取り除いてください、しかしあなたのみこころがなりますように、と。そして限界をこえて復活させられたのです。悲しみの限界を知っているイエスさまが呼びかけておられるのです。</p> <p> 悲しみの限界での「ただ信じなさい。」こう言われる方を信頼しましょう。悲しんだままでいい。復活の主イエスさまに、自分を任せましょう。</p> <p><br></p> <p> 私自身、実際に自分の子が死んでしまったら、そうできるかどうか、、、。でもだからこそ、その時には、復活のイエスさまがこう呼びかけておられることを忘れずにいたいと思います。</p> <p> 「恐れることはない。ただ私を信じなさい。悲しんだままでいい。限界を超えて私に頼りなさい。あとは私が復活の命まで導くから。」</p>
June 23, 2024
<p>「私たちがおぼれてもかまわないのですか」</p> <p> マルコ福音書4章38節</p> <p> 2024年6月23日 聖霊降臨後第5主日(特7)</p> <p>♪♪あらしのひ、なみたけるうみで、でしたちをさとされた、ちからのみことばを私にもきかせてください♪♪</p> <p><br></p> <p>イエスさまが叱ると嵐が静まった場面です。ただしこの場面はたまたま奇跡が起こった。というものではありません。そうではなく、イエスさまは、ヨブ記が語る、偉大な力にみなぎる創造主だ、という意味です。その力は全世界と全ての命を創造した力、混沌と死をも支配する力です。死人のうちから甦った、復活の命の力です。</p> <p><br></p> <p>この偉大な創造主を乗せている船、それが教会です。</p> <p><br></p> <p>しかし現実の教会はローマ帝国による迫害の嵐にさらされ、64年に殉教したペトロとパウロなど、実際に殺された信徒もいて、死の恐怖に怯え、溺れかけていました。イエスさまは起きているのか。</p> <p><br></p> <p>私たちも、命の創造主を乗せている教会の信徒であるにも関わらず、死を前にして沈みそうになります。老いの逆風に悩まされ、死に至る病いの波に叩きつけられ、暗闇の中で死が最後だと絶望し、死別の悲しみの涙に沈みそうになります。</p> <p><br></p> <p>そのような死の嵐で心が溺れそうなとき、イエスさまは船尾で「枕をして眠って」おられるように思われます。それは神が力を失ったということではなく、人がそこまで真剣に祈ってこなかった、ということです。眠っているのは神ではなくて、神と人の祈りの関係です。</p> <p><br></p> <p>そんな時は、聖書が薦めます、「うるさく」祈ってイエスさまを「起こしなさい」と。「先生、私たちがおぼれても構わないのですか。イエスさま起きてください。助けてください !」</p> <p><br></p> <p>そうすればイエスさまは必ず起きてくださいます。死んだように思えていても必ず起き上がってくたさいます。復活してくださいます。そして祈りを聞いてくださいます。そして全世界の命を創造した力、十字架の苦しみによって死の力に打ち勝った復活の力で言われる「黙れ、静まれ」の言葉は全地に響き、死の嵐は治められます。心の嵐はちっぽけな波となり、そして大いなる創造主によって、平和の凪に静まります。</p> <p><br></p> <p>例えば愛する人が死に面するときです。死に怯えて私たちは、祈りでイエスさまを起こします。「イエスさま、どうか起きて下さい。助けてください。これが最期なら、心の平和を、永遠の平安をお与え下さい。」それまで真剣に祈ってこなくてもいい。不真面目だったとしてもいい。そのとき「うるさく」執拗に祈れば主は必ず起きて下さる。(ルカ11:8) 「しかたない、私がなんとかする。静かにしろ」。そして復活の平和を与えて下さいます。愛する人は天国へ行くことができた、と安心できるのです。</p> <p><br></p> <p>「わたしは教会の底で寝ている。あなたの心の底で寝ている。わたしを起こしなさい。死を目の前にして、うるさく祈って起こしなさい。わたしは必ず起きて嵐を静めるから。だからわたしを起こしなさい。」</p>
June 16, 2024
<p>「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」</p> <p>マルコ3・29</p> <p>司祭藤原健久</p> <p>イエス様は言われます。「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエス様にしては珍しいほどの、厳しい言葉です。イエス様は、聖霊だけは絶対に冒涜してはならない、と言われます。それは何故でしょう。聖霊を冒涜することは、自分を冒涜することになるからです。</p> <p> 聖霊はすべての人の中におられます。もちろん自分の中にも聖霊がおられます。ですので聖霊を冒涜することは、自分を冒涜することになるのです。そしてそれが、一番してはいけない事、絶対やってはいけない事なのです。まず自分を大切にすること、自分を愛するところから、全ては始まるのです。</p> <p> イエス様は言われました。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」私たちの使命は愛です。イエス様の「互いに愛し合いなさい」と言いう教えは、新しい掟として定められたものです。そして、その愛の前提は、自分を愛することなのです。今、若い人の中には「自分を愛する」ということが、とても理解しにくい人が居ると思います。自分が愛されているという実感が薄いのかもしれません。それは、家庭環境だけでなく、社会の状況によるものなのかもしれません。</p> <p> イエス様は「まず自分を愛しなさい。あなたは愛されるのに十分な存在なのですよ」と私たちに伝えてくださっていると思います。</p> <p> この言葉の前に、大切な言葉が記されています。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」ここでいう「人の子ら」というのは、普通の人間の事を指していると思います。ここには、私たちが口にする冒涜の言葉は赦されるとあります。イエス様の心の中では、これは、ご自分に向けられた冒涜の言葉も含まれるのでしょう。イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。「私のことは、どれだけ冒涜しても良い。その代わりに、あなたたちは、せめて自分の事は大切にしなさい。」イエス様はその思いの通りに、人々からの十字架の重荷を甘んじて受け止められました。</p> <p> 聖霊を大切にするのは、自分を大切にすることです。私たちはここから発展し、自分だけでなく、すべての聖霊を含むものを大切にするようになります。聖霊はどこにあるでしょう。それはすべての人の中であり、そして、神様に創られたものすべての中にあるのです。聖霊を大切にすることで、自分だけでなく、すべての人々、すべての被造物を大切にするのです。</p> <p> 私は、自分のちっぽけなプライドが傷つけられた時に、とても腹が立ちます。本当にいけないことです。イエス様は、御自分のプライドを全て捨て去って、人々を愛されました。自分のあり方を神様の御前で懺悔し、正しく自分を愛し、全て非人を、全てのものを愛していきたいと思います。</p> <p><br></p>
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